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女性の即身仏はなぜ実在しないのか?女人禁制の壁と『往生伝』に残る聖なる尼僧たちの真実

歴史 探子

テレビで即身仏の特集を見たんですけど、映っているのはお坊さん(男性)ばかりですよね。女性の即身仏って、日本には一人もいないんですか?

「即身仏に女性はいない」。この事実は、現代の私たちには少し寂しく、あるいは不公平に響くかもしれません。

結論から申し上げますと、日本国内に現存する即身仏の中に、女性は1体も存在しません。

しかし、そこで「昔は女性差別がひどかったから」と思考を停止してしまうのは、あまりにも惜しいことです。古文書を深く紐解くと、そこには過酷な山岳修行とは異なるアプローチで、静かに、しかし鮮烈に「聖なる死」を迎えた女性たちの姿が浮かび上がってきます。

なぜ女性は即身仏になれなかったのか。その背景にある「女人禁制」と「変成男子(へんじょうなんし)」という二重の壁を直視しつつ、歴史の影に隠れた彼女たちの真実を、一緒に探しに行きましょう。

この記事を書いた人:如月 蓮
如月 蓮
如月 蓮(きさらぎ れん)
仏教民俗学ライター・在野歴史研究家

各地の寺社や郷土資料館を20年以上取材し、歴史の不条理を直視しつつ、その制約の中で懸命に生きた女性たちへ温かい眼差しを向ける案内人として活動しています。

目次

【事実確認】日本に「女性の即身仏」は現存するのか?

まず、客観的な事実から確認していきましょう。山形県の出羽三山を中心に、日本国内には現在17体前後(定義により変動)の即身仏が現存していますが、そのすべてが男性です。

これは、新潟大学医学部などによる学術的な調査によっても裏付けられています。遺体の骨格や特徴から、現存する即身仏はすべて生物学的にも男性であることが確認されています。

「妙心法師」は女性ではないのか?

インターネット上でよく見かける誤解の一つに、「岐阜県・横蔵寺の即身仏『妙心法師(みょうしんほうし)』は女性ではないか?」という説があります。「妙心」という響きが女性を連想させるためでしょう。

しかし、妙心法師と女性の間には、明確な誤認があります。妙心法師の本名は「古野小一郎熊吉」という男性であり、彼が女性であったという事実は一切ありません。このように、都市伝説レベルでは「女性説」が囁かれることがありますが、史実として認定された女性即身仏は存在しないのです。

✍️ 専門家の経験からの一言アドバイス

【結論】: 「隠された女性即身仏がいるはずだ」というミステリー的な期待は、一度脇に置いて歴史を見つめましょう。

なぜなら、即身仏の研究においては、「いないこと」自体が当時の宗教観を理解する最大の鍵だからです。物質的なミイラの有無よりも、「なぜいなかったのか」という背景にこそ、当時の女性たちのリアルな苦悩と救済への渇望が隠されています。

なぜ女性は即身仏になれなかったのか?二つの「越えられない壁」

では、なぜ女性は即身仏になれなかったのでしょうか。そこには、物理的な場所の制約である「女人禁制」と、教義上の制約である「変成男子」という、二つの巨大な壁が立ちはだかっていました。

1. 物理的な壁:聖域への立ち入り禁止(女人禁制)

即身仏の多くが修行を行った出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)は、明治5年(1872年)に太政官布告が出されるまで、厳格な女人禁制の山でした。

即身仏と女人禁制は、切っても切れない阻害関係にあります。即身仏になるための修行である「木食行(もくじきぎょう)」や、最終段階である「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」が行われる場所は、すべて女性が立ち入れない「結界」の内側にありました。つまり、女性はスタートラインに立つことすら物理的に許されていなかったのです。

女性たちは山の麓にある「姥堂(うばどう)」などで遥拝(遠くから拝むこと)するしかなく、山中での過酷な修行に参加する機会自体が閉ざされていました。

2. 思想的な壁:女性のままでは仏になれない(変成男子)

物理的な壁以上に女性たちを苦しめたのが、仏教における「変成男子(へんじょうなんし)」という思想です。

当時の教義では、「女性の体は穢れており、障りがあるため、そのままでは成仏できない」とされていました。『法華経』提婆達多品に登場する「竜女(りゅうにょ)」のエピソードがその根拠とされ、「女性は一度男性に変身してからでなければ、仏になることはできない」と信じられていたのです。

ここで、「女性」と「変成男子」という思想的障壁の関係を整理してみましょう。即身仏とは「現身(げんしん)のまま」、つまり「今の肉体のまま」仏になることを目指す究極の修行です。しかし、教義上「女性の肉体のままでは仏になれない」とされている以上、女性が即身仏になることは、論理的に矛盾してしまうのです。

即身仏は女性がなってよいのか

歴史の闇に咲いた花。『日本往生極楽記』に見る女性たちの「聖なる死」

ここまで読むと、「昔の女性は救われなかったのか」と暗い気持ちになるかもしれません。しかし、歴史はそこで終わりではありません。

男性たちが「即身仏」という自力の荒行で肉体を残そうとしたのに対し、女性たちは別の形で「聖なる死」を迎えていました。その証拠が、平安時代の慶滋保胤(よししげのやすたね)によって編纂された『日本往生極楽記』などの往生伝です。

修行によらない、静かなる奇跡

『日本往生極楽記』には、45人の往生者の記録がありますが、その中には数名の女性が含まれています。例えば、「尼某甲(あま・なにがし)」や「加賀国二塚村の尼」のエピソードです。

彼女たちは、山に籠もって断食をしたわけではありません。日々の暮らしの中で念仏を唱え、心を清らかに保ち続けました。そして臨終の時、彼女たちの部屋には紫雲がたなびき、亡くなった後の遺体は「腐敗することなく、いつまでも生けるように美しく、良い香りが満ちていた」と記されています。

ここで重要なのは、男性の「修行による即身仏」と、女性の「信仰による聖なる往生」の対比です。

  • 男性(即身仏):自らの力(自力)で肉体を加工し、苦行の末に仏となる。
  • 女性(往生人):阿弥陀仏の救い(他力)を信じ、穏やかな死を通じて聖性を獲得する。

即身仏という形ではありませんが、彼女たちの遺体が「腐敗しなかった」という伝承は、女性にも独自の聖性や救済が用意されていたことを力強く物語っています。

世界に目を向けると?カトリックの「不朽体」という女性たち

視野を少し広げてみましょう。世界には、女性の遺体が聖なるものとして崇敬されている事例が存在します。

カトリック教会には「不朽体(Incorruptible bodies)」と呼ばれる概念があります。最も有名なのは、フランスの聖女ベルナデット・スビルーでしょう。彼女の遺体は死後100年以上経っても腐敗の兆候を見せず、まるで眠っているかのような姿で安置されています。

日本の即身仏が人為的な努力の結果であるのに対し、ベルナデットのような不朽体は「神の奇跡」とされます。文化や宗教は違えど、女性の清らかな魂が肉体を超えて語り継がれる事例があることは、私たちに普遍的な希望を与えてくれます。

よくある質問 (FAQ)

最後に、女性と即身仏に関してよく寄せられる疑問にお答えします。

即身仏になろうとした女性の記録は全くないのですか?

公式な歴史記録(寺院の記録や古文書)には存在しません。ただし、各地の民話や伝説レベルでは、「恋人の後を追って入定しようとした」といった悲恋の物語や、尼僧が入定したという伝承が散見されることはあります。これらは史実というよりは、人々の願望や想像力が生んだ物語と考えられています。

現代なら、女性も即身仏になれますか?

いいえ、現代では男女問わず、新たな即身仏になることはできません。自殺幇助罪や死体損壊罪などの法律に抵触するほか、現在の仏教界でも、即身仏という修行形態自体が行われていないためです。

まとめ:形に残らなくとも、祈りは消えない

日本に女性の即身仏が現存しないのは、当時の「女人禁制」という社会制度と、「変成男子」という宗教観が深く関係していました。

しかし、それは「女性が救われなかった」ことを意味しません。『日本往生極楽記』に残る尼僧たちの記録は、厳しい戒律の外側で、女性たちが独自の信仰を貫き、安らかな往生を遂げていたことを教えてくれます。

形あるミイラ(即身仏)だけが信仰の証ではありません。歴史の闇に消えていった、名もなき女性たちの静かな祈りにこそ、私たちは思いを馳せるべきなのかもしれません。

もし今後、即身仏を拝観する機会があれば、その荘厳な姿の向こう側に、そこに入ることすら許されなかった女性たちの切なる願いも、どうか感じ取ってみてください。

参考文献・出典
女性の即身仏はなぜ実在しないのか?女人禁制の壁と『往生伝』に残る聖なる尼僧たちの真実

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