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即身仏(そくしんぶつ)とは?なんのために?意味や目的の解説【歴史】 

即身仏という言葉は、仏教などで登場するが、一体即身仏とは意味や目的は何なのか?を当記事で紹介していきます。

目次

即身仏とは?意味

即身仏とは、日本特有の宗教的現象で、高度な精神的修行を通じて自らの身体をミイラ化させ、生きたまま仏となることを目指した僧侶のことです。仏教の中の修行法の一つでありました。

この現象は、特に江戸時代に広く信仰され、その根底には、僧侶が自己犠牲の精神で人々の苦難を代わりに負い、世の中の平和と安定を祈る思想がありました。僧侶はまず肉体的、精神的な不浄を取り除くことから始まる、食事と水を断ち、座禅を組み、瞑想にふける。そして、ゆっくりと餓死していく。死後、僧侶の身体は「ミイラ化」となり保存される。

即身仏の修行は、身体的な苦行だけでなく、深い精神的な覚悟を必要とし、この修行を完遂した僧侶は、その通常の遺体としてではなく即身仏を通して信仰の対象となり、今日に至るまで多くの人々に尊敬されています。この習慣は、日本の仏教における信仰の深さと、生と死を超えた精神的な追求を象徴しています。

西暦2000年になった現在でも、未だに念仏された即身仏綺麗に残り祀られています。

即身仏はなんのために?目的解説

即身仏の目的

即身仏となることの主な目的は、一生のうちに仏になることが目的です。なぜ仏になることを目指すのか苦難に満ちた世界において、人々のために平和と幸福を祈願することにありました。この目的のために、僧侶たちは極限まで自己を捧げる覚悟を持ち、非常に厳しい修行に身を委ねました。

その中で重要な役割を果たすのが「木食行」と「土中入定」です。

「木食行」では、僧侶は穀物を断ち、木の皮や実のみを食べることで身体を清浄化し、脂肪や水分を極限まで削ぎ落とします。これにより、身体がミイラ化しやすい状態へと導かれます。

「土中入定」では、僧侶は地中に埋められた石室の中で瞑想に入り、最終的には命を絶ちます。この行為は、自らの生命を捧げることで、世界の平穏を祈る最大の犠牲とされています。これらの修行は、単なる身体的な苦行を超え、深い精神性と献身的な姿勢を必要としました。即身仏は、自己の完全な犠牲を通して、人々の幸せを願う仏教の深い教えを体現したのです。

それは、疫病などの病や貧困からの民間人を救いたいという祈願を願い仏になることを志願します。仏になるには、誰もがなれる訳でありません、とても過酷な手順を踏まえることにより、即身仏となります。

即身仏の歴史

即身仏の歴史は、日本において室町時代(1336年から1573年)から江戸時代(1603年から1868年)にかけて栄えました。この習慣は、特に14世紀半ばから17世紀にかけての時期に特に重要な宗教的象徴として見なされ、多くの寺院や信者によって深く尊敬されていました。最も古い記録に残る即身仏は、新潟県にある弘智法印の即身仏で、この僧侶は室町時代前期、具体的には14世紀後半に修行を行い、即身仏となりました。

この時代、即身仏は仏教の教えや精神的な追求を象徴するものとして、多くの寺院や信者によって崇拝されたのです。この習慣は、生と死の境界を超えた精神性を追求する日本の仏教文化の深さを示す象徴として、今日まで語り継がれています。また、即身仏となった僧侶たちは、生前から高い尊敬を集め、死後はその遺体を通してさらなる信仰の対象となり、仏教の歴史の中で特別な地位を占めるようになりました。

2023年現在も即身仏の歴史は語り続けられており、お寺で祀られており拝観することも可能です。
>>即身仏の祀られる寺院一覧

即身仏と自殺者の違い

即身仏

現代では即身仏になる行為は、自殺行為に等しいと見なされ、法律に抵触する可能性が高いです。ただし、即身仏と自殺者はその意図と目的が根本的に異なります。自殺は個人的な苦しみや絶望から逃れるための行為ですが、即身仏は、他者のために自らを犠牲にすることに重きを置いた宗教的な行為でした。この重要な違いは、即身仏の修行が単なる自己終焉ではなく、より高い精神的な目的を持っていたことを示しています。

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